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特集記事【2010年11/20日号】

火山の国、日本には無数の温泉が昔からありました。かつては禊(みそぎ)などの神事が行われたりといった信仰の対象だったこともありますが、次第に温泉の効能が広まり、入浴して身体を治す「湯治」の考え方が一般的になってきます。

現在も日本有数の温泉地として知られる別府温泉には、鎌倉時代に繰り広げられた戦い「元寇」の戦傷者が傷をいやすために訪れたとの記録が残っています。戦乱の世において、温泉は貴重な“医療施設”でもあったのです。 戦国武将ともなれば、戦(いくさ)の指揮を執るのはもちろんのこと、兵士が万全の状態で戦えるよう、さまざまなことに気を配る必要がありました。戦時下のご飯「兵糧」は、長期間でも腐らないように工夫されていましたし、傷を負った兵士をいやすために温泉は重宝されました。中でも甲斐の猛将・武田信玄や、越後の上杉謙信は、彼らゆかりの「隠し湯」が現在でも多く存在しています。

もっとも「隠し湯」という呼び名は後世の人々がつけたもの。当人たちが本当に隠していたかどうかは定かではありませんが、山野を駆け巡っていた彼らしか知らない温泉は、そこかしこにあったことでしょう。

そこで今月は、武将ゆかりの温泉を、厳選してご紹介。戦国武将たちに想いを馳せながら、日々の疲れをゆっくりと癒してください。
「熱い海」と書いて熱海。海に熱い湯が沸いたことが、その名の由来ともいわれています。富士火山帯の恩恵を受け、古くから温泉地として名を馳せてきました。

そんな熱海温泉ゆかりの武将が、三河国(現在の愛知県東部)に生まれ、天下統一を成し遂げた徳川家康公です。

家康が初めて熱海の地に訪れたのは、関ヶ原の戦いに勝利を収める3年前の、慶長2年だったといわれています。天下統一後の慶長9年には、息子である義直(幼名:五郎太丸)と頼宣(幼名:長福丸)とともに熱海に逗留。家康は、湯前神社の隣にあった“大湯”に入浴したといわれています。よほどお気に召したのか、同年には京都で病気療養をしていた毛利家の武将、吉川広家に、熱海の湯をお見舞い品として運ばせたそうです。

家康の死後も、徳川家と熱海温泉は密接な関係を続けます。三代将軍家光の頃、熱海の湯が毎年数回、江戸城まで運ばれるようになりました。この湯を“御汲湯(おくみゆ)”といいます。同じく御汲湯として草津温泉も有名ですが、こちらは八代将軍吉宗の時代になってから。吉宗は熱海の湯もさかんに運ばせ、享保11年から19年の間に3640樽もの湯が江戸までやってきたそうです。

現在、JR熱海駅前には、御汲湯として使われた“大湯”の間欠泉を模して造られた間欠泉が造られ、その脇には「家康の湯」と名付けられた足湯があります。100%本物の温泉が使用されている“かけ流し”の足湯です。

幾多の戦いを繰り広げ、家康が天下統一を果たしたのは還暦の頃。さぞかし熱海の湯は、これまで歩いてきた道のりを振り返り、心底からリラックスするのに向いていたことでしょう。人一倍健康に気を遣い、この時代にしては大往生といえる75歳まで生き延びた家康が愛した熱海の湯、ぜひともその恩恵に授かりたいものです。
10月から12月にかけて、熱海ではミカン狩りも楽しめます。冬を迎えるにあたって、程よく脂の乗った魚介類などの味覚も楽しみたいですよね。さらに12月5日、12日、23日には、冬の熱海海上花火大会が開催。澄んだ空気の中、クリアに輝く冬の花火もなかなかの風情です。

さて、熱海には数多くの旅館やホテルが軒を連ねていますが、家康さながらにゆったりと“和”の空間でくつろぎたい方におすすめなのが、伊豆屈指の高級旅館「あたみ石亭」です。

「石亭」の名にふさわしく、約3千坪の庭園には日本各地から集められた由緒ある石灯籠や銘石が点在。銘木や小川のせせらぎも配置され、静寂が庭を包み込んでいます。

その景観にしっくりなじむかたちで点在している、数寄屋造りの瀟洒な“離れ”が客室。伝統美を備えつつも個性的な客室の中には露天風呂付きの部屋もあり、庭の美しさを愛でながらゆったりとくつろぐことができます。貴賓室や特別室など、エグゼクティブな離れも人気です。

同旅館の温泉は、身体を芯まで温め、万病を癒すと伝えられてきた熱海の湯の中でもひときわ高濃度で、舐めると少し辛さを感じるほど。二百年を経た東北地方の庄屋を移築して造られた脱衣所と、野趣あふれる露天風呂が魅力的な「古狸の湯」は男性用。かつて神社の御神木だった直径60センチの杉を譲り受け、幹をくりぬいて作られた湯船に入ることができる「御神木の湯」は女性用の露天風呂です。

その他、敷地内には和カフェやライブラリー、スパなど、心地よい休日を過ごせるスペースが点在しています。普段の日常から抜け出して、ちょっと贅沢な温泉旅を、家康ゆかりの地で楽しんでみてはいかがでしょう。
■熱海温泉
 ホームページ:http://www.ataminews.gr.jp/(熱海市観光協会)
■あたみ石亭
 ホームページ:http://www.sekitei.co.jp/atami/(あたみ石亭)
 
仙台駅から車で30分ほどの距離に位置する秋保(あきう)温泉は、古墳時代から開湯していると伝えられる古湯の郷。鳴子温泉(宮城県)、飯坂温泉(福島県)と共に、奥州三名湯に数えられる温泉郷です。

6世紀、皮膚病を患った欽明天皇が、秋保温で沐浴したところ病が癒えたことから、皇室御用達の「御湯」として称されるようになり、その評判は大いに広まりました。

時は流れて戦国時代。杜の都・仙台から、時代の風雲児が現れます。ご存じ“独眼竜”こと伊達政宗です。幾多の戦いを繰り広げた歴戦の兵(つわもの)である政宗は、1601年に仙台藩の初代藩主となります。1614年の「大坂の役」などを経て、晩年には領国の開発に注力。運河を整備して稲作の下地を作り、それらの物流拠点として港をも整備しました。さらに数々の寺社仏閣の建築にも着手しています。

同じく、政宗の仙台入府後に行われたことのひとつが、湯浴み御殿の整備です。その場所は秋保温泉に定められ、政宗自身も湯浴みを幾度となく堪能したといわれています。やがて庶民向けの湯や宿も整備され、広く評判を得るようになりました。

そんな秋保温泉を訪れるのなら、その前後にぜひとも政宗ゆかりの地を巡っておきたいところ。かつて仙台城のあった青葉山には、かの有名な政宗の騎馬像が建っています。

また、本丸跡にある「青葉城資料展示館」には、政宗の具足をはじめ、ゆかりの品々が展示されており、多くの歴史ファンが足を運んでいます。伊達政宗が眠る霊廟「瑞鳳殿」は国宝。その豪華絢爛な建築は必見です。

秋保温泉の周辺には秋保大滝や磊々峡(らいらいきょう)などの名勝もあり、温泉客は四季折々の姿を楽しんでいます。アクセスのよい“仙台の奥座敷”といえるでしょう。
温泉には、山奥にひっそりと沸く手つかずの「野湯」もあれば、時の君主から寵愛され、管理の行き届いた温泉もあります。後者に欠かせない存在だったのが「湯守(ゆもり)」と呼ばれる役職。源泉、ひいては温泉の管理はもちろん、宿の営業なども担い、入湯料の一部を藩に納めていたといいます。

秋保温泉で湯守を命じられていたのが、佐藤家。その佐藤家を祖とする宿は「ホテル佐勘」として今もなお健在です。“政宗ゆかり”という意味でいえば、もっともゆかり深い宿といえるでしょう。

館内にある「主屋」は、政宗より拝領したもの。家宝の聖火が400年来、絶えることなく燃え、その歴史の重みを感じさせてくれます。ギャラリーには湯守としての歴史を今に伝える貴重な資料が並び、初代・佐藤勘三郎が恩賞として賜った甲冑なども展示されています。面白いのは、これら建物や工芸品などを説明してくれる館内歴史ツアーを行っている点。歴史ファンにはたまらないサービスですよね。

肝心の温泉も充実。「名取の御湯」は、壁面を構成する大きなガラス窓のところどころに格子が組まれています。これは政宗が湯浴みをする際、敵襲から守る役割を果たしていた格子を再現したもの。湯浴みを満喫した政宗の気分が存分に味わえること、請け合いです。他にも名取川を眼下にのぞむ露天風呂「河原の湯」や、パウダールームが充実した大浴場などがあり、それぞれの風情を楽しみながら入浴することができます。

その他、ダイニングレストランやティーラウンジ、リラクゼーションサロン、ワインバーなども完備。歴史をしのばせる部分と、最新の贅を尽くした設備がうまくマッチしていて、快適に過ごせるようになっています。

これからの季節は、天候によっては「雪見露天風呂」となる可能性も。戦国の世を駆け抜けた政宗が心和んだひとときを、ぜひ堪能してみてください。
■秋保温泉
 ホームページ:http://sendai-akiu.com/(秋保温泉ナビ)
■ホテル佐勘
 ホームページ:http://www.sakan-net.co.jp/
 
太閤、豊臣秀吉ゆかりの温泉といえば、神戸の有馬温泉がよく知られています。明智光秀や柴田勝家などを次々と討ち滅ぼし、意気揚々と天下統一への足場を踏み固めていた時、有馬温泉に家臣達や正妻と共に訪れては、一息ついていたといわれています。気難しいところがありながらも、お気に入りのものには財貨を惜しまず投じる秀吉の性格ゆえか、大火事に見舞われた有馬温泉への援助も積極的に実施していたそうです。

そんな秀吉ゆかりの温泉がもうひとつ、箱根の地にありました。それが底倉温泉です。江戸初期から、底倉は湯本、塔ノ沢、堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀、足之湯と並び、「箱根七湯」に数えられている、歴史ある温泉です。

1590年、各地の戦国大名を配下にし、ほぼ天下を手中にしていた秀吉に、最後まで反旗を翻していたのが北条家。北条氏政、北条氏直父子は守りの堅い小田原城に籠城していましたが、秀吉は陸路から海路から大軍を引き連れて小田原までやってきました。世にいう「小田原攻め」です。

秀吉は、歴然とした力の差を見せつける戦法を用います。ひとつが石垣山に築いた城。目立たないように工事を進め、ひと晩にして城が建ったようにみえたことから「一夜城」と呼ばれました。そこに側室である淀君や、(この時点では)秀吉のお気に入りだった千利休を招き、茶会を催したりと、とても戦場とは思えない余裕を見せつけます。結局、小田原城を落とすための目立った戦闘は行われず、北条家の内部の裏切りなどによって「小田原攻め」は終結しました。一夜城の跡地は、現在「石垣山一夜城歴史公園」として整備されています。

この小田原遠征の際、秀吉が底倉の地に目をつけ、岩の割れ目から噴出する源泉を用いて温泉を創り上げたといわれています。現在は入浴することはできませんが、秀吉が将兵の労をねぎらう為に掘らせたといわれている「太閤石風呂(たいこういわぶろ)」が蛇骨川の川岸に残っており、遊歩道からその姿を見ることができます。ちなみに、その下流には「太閤の滝」があり、散策する人の目を楽しませています。
底倉温泉は、箱根登山鉄道の宮ノ下駅と小涌谷駅のちょうど中間に位置します。他の箱根七湯に比べて旅館の数は少ない底倉温泉にあって、江戸の頃より旅館業を営んでいるのが「そこくらの湯 つたや」です。江戸時代に書かれた、今でいうところの箱根ガイドブック的な絵巻「七湯の枝折」にも、当時の旅館の姿が描かれています。

温泉は、同館の敷地内の岩盤から自噴している「蛇骨源泉」を使用しています。岩の裂け目から噴出する湯を採取して供給している点は江戸時代と同じ手法で、かなり珍しいといえます。さらに掛け流しの野天岩風呂にすぐさま注がれているため、鮮度の高い天然温泉の恵みをそのまま堪能できるのも嬉しいところ。大浴場も同じく「蛇骨源泉」が使われており、床や湯船には銘石として名高い「伊豆青石」があしらわれています。

旅館自体が切り立った蛇骨渓谷沿いに建っており、車道から若干離れていることも魅力のひとつ。川のせせらぎや木立のそよぐ音、鳥の鳴き声が耳に心地よく、自然の中でのんびりとしている気分を味わうことができます。

また、宿泊だけでなく日帰り入浴に訪れるお客も多く、2時間の「入浴のみコース」、午前10時から19時までの間、再入館可能な「湯ったりコース」、さらに個室が利用できるコースなど、旅のプランに合わせて選ぶことが可能です。

再入館できるコースは、ここを拠点にして日帰りで箱根散策したい方には最適かもしれません。

周辺には、先程紹介した太閤石風呂や太閤の滝のみならず、さまざまな見どころがあります。堂ケ島温泉、宮ノ下温泉、底倉温泉の鎮守である熊野神社は、湯の恵みに感謝する温泉の神様。また、芦ノ湖畔に鎮座する箱根神社の分社もあります。早川に沿って整備された堂ヶ島渓谷遊歩道も、自然を満喫するには最適です。

小田原攻めに成功し、天下統一をほぼ手中にした秀吉の“ひとっ風呂”は、さぞかし気持ちよかったことでしょう。遠く戦国の世に想いを馳せながら、底倉温泉でゆったりとした休日を過ごしたいものです。
■そこくらの湯 つたや
 ホームページ:http://www.sokokuranoyu-tsutaya.jp/
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